合宿

いまアルバイトしている会社で合宿があった。

アルバイトも一緒にどうぞと誘われたので行ってきた。実はあちこちで働いてきたのに、合宿というのは初めての経験だったのでけっこう楽しかった。私は全社的な飲み会とか、社員旅行・研修とか、そういうのは嫌いだ。特に業務後や休日にそういうのをやろうとする会社は今の時代おかしいとすら思う。なるべくそういうのには関わりたくないし、強制でない限りこれまでは無視してきたし、今後も無視していくと思う。

但し、業務内に業務として全社的な企画があるのを否定するわけではない。前述したのは業務なのかそうじゃないのかを曖昧にして、経営者または管理者が意図的に画策しているなにかを誤魔化そうしているのが気に食わないだけだ。他人を巻き込むのにその当事者がそういった覚悟なしに行動していることそのものに疑念をもっている、つまりはそういうことだ。

さて、今回参加した合宿は、平日に朝から夜まで行われた。古民家の一室を貸し切って経営陣と社員が今後の戦略や事業について語り合う。なかなかに刺激的で収穫の多い1日だったと思う。以前、働いていた会社でも同様に丸1日、次年度の事業戦略について発表する機会はあったけれど、それは主にこういうことをやりますという発表の場であり、その方向性を議論する場ではなかった。また社内の会議室でお行儀よくプレゼンするといったスタイルであったために議論が白熱するといったことはなく、質疑応答があるだけといったものだった。

業務としての合宿とは何かというのを一言で表すなら、普段みんなが思っていることを吐露する場だ。もちろん社員数が少ないからできることだろう。社員数が少ない場合、その事業を支えている社員の影響力は大きくなる。だから社員の想いをぶつけ合うことに大きな意味が出てくる。本当のところ、事業やプロダクトは社員のモチベーションに懸かっていると言っていい。マネジメントの本質とは、やる気の有無に依らず、スキルの多寡に依らず、定量的に再現可能であることだけれど、その理想に至るには私たちの社会の成熟度や生産性はまだまだ低いというのが現実だろう。

合宿は、事業戦略を決めることそのものよりも、経営陣と社員が進む方向性をまとめ上げ、少ないマンパワーをなるべく浪費せず効率的に事業に注ぎ込むための取り組みとして優れているように感じた。そのための仕掛けとして普段のオフィスではなくどこかの場を借りて行うのは、非日常的な空間から新しいことへの取り組みを示唆する演出の1つと言っていいだろう。

合宿を成功させるには、経営陣が会社をどうしていきたいか、社員とどう在りたいか、そういった熱意も大事だろう。人を導くというと大袈裟かもしれないけど、そこにはたくさんのエネルギーがいるというのを今回の合宿を通して肌で感じた。人は論理ではなく感情で動く。もちろん理論的背景も大事だし、それであってその感性も持ち合わせるというのはすごく難しいことにも思えた。

いくつか思った所感を書いておく。

  • 失敗した後になってあれこれ茶々をいれるのはあまり建設的ではない。結果から反省はすべきだけど、必要以上に責任を追求すべきではないと私は思う。失敗した当事者がそう思っていたのならなぜ最初からそう言わないのか?と周りに問うようなことも同じぐらい間違いだと思う。感覚としては、なぜ当事者が周りに聞いてまわらなかったのかと反省すべきであって、自分の業務を周りに (ただで) 助けてもらえるのが当然という感覚はちょっとずれている。
  • 成功する見込みを定量化できないならやってはいけないという空気を作るべきではない。本当のところ、何が成功するかは誰にも分からない。一般論でも数打てば当たるという戦略が最も成功する確率が高い。リソースが少ないから成功しそうなものだけやるというのは、おそらく本末転倒であり、いくつかやってそのうち1つでも当たれば良しとするといった感覚でやらないとそのプレッシャーが強過ぎて担当者を潰してしまう。
  • 合意よりも落としどころ。人が増えれば増えるほど議論 (想い) はまとまらない。最後は決めの問題だ。そのときに無理に合意を目指すよりも落としどころを探るのが善策だと私は思う。本当のところ、他人の考えも想いも分からない。それを踏まえた上でここでお互い良しとしましょう、相手にも敬意を払う、相手の立場も立てる。話せば分かるというのは、ビジネスでは相手が根負けするまで追い詰めるということと同義であって、そこからお互いの尊厳を認め合うようにはならない。もちろん程度の問題なのでその「落としどころ」が難しいのだけれど。
  • 社外の専門家と社外の空気。合宿には、私のようなアルバイト、インターン生、社外取締役や社外コンサルタントも参加していた。合宿とは1日を通しての会議とも言えるので、会議で発言しないことは参加している意味がなく何かしら発言するのが職務と言える。社外の人の中には、的確に議論に入れる人とそうではない人もいた。もし社外の人で入れないとしたら、その人の専門性はお門違いということだ。私は基本的にコンサルタント嫌いで、彼・彼女らの意見は何の役にも立たないと考えがちだけど、一概にそうとも言えないと社外の人たちの行動をみていて考えを少し改めた。
  • 怒らないこと。自分の考えが伝わらないもどかしさを他者へ転嫁してキレてはいけない。特にマネジメントをする立場の人がそうであってはいけない。ビジネスにおけるコミュニケーションの原則は、発信側、お願いする側が全ての責任をもつ。相手が意図した行動を取ってくれなかった場合の責任は全て依頼した側にある。この原則を踏まえた上でのコミュニケーションでキレるという行為は責任放棄ともいえる。最近よく思い出すのが、うしおととらの二代目お役目様の「みんな仲良うせなあかんよ」。世の中の問題の多くはあの状況に集約されるんじゃないかとすら思えてくる。

経験のある人を身近におくこと

タイムラインで経験年数とか関係なくね?みたいな記事や話題が盛り上がっていた。IT 業界あるある的なネタは周期的に繰り返しているような気がして、同じネタを2回も3回もみているうちにあ、はい、みたいな反応になってもうどうでもよくなる。意図的にしろそうでないにしろ、バズらせるために極端な表現を見聞きするのも飽きてきた。

いまの私の所感を書くと、勉強しない人たちも、業務外で勉強しろと威勢のいい人たちも両方消えてなくなれって感じだ。あっ、その話題じゃない?じゃあ、経験のある人も未経験の人も両方消えてなくなれ、、、とは言えないか。

閑話休題。経験年数でその人の能力は一概に測れないというのはまぁそうでしょう。この答えは、できる人はできるし、できない人はできないというだけだと思う。経験年数とか関係なくできない人がいるだけ。当たり前の話だけど、できる人は経験がある方がよりできるという話でしかない。

自分に置き換えて考えてみよう。それなりに勉強している自負があると仮定する。1年前の自分よりも現在の自分の方が能力は上がっているし、その延長線上で未来の自分もいくらか能力が上がっていると推測できる。どう考えても経験年数の多い方ができるに決まっている。

本題はそこじゃなくて自分がそれなりの年齢になって周りの見方や日々の応対が変わってきた感がある。というのは、私より若い上司や顧客が増えるにつれ、自分に求められる役割が変わってきているのではないかと感じるようになってきたからだ。

いまの私が一回りぐらい年配の方に接するとき、私自身が未熟なためにみえていないものをその人の経験から助言してもらえるのではないかと期待してしまう。

ここでいう助言とは、プラクティスやハウツーといったスキル的なものではなく、A 社と B 社のどちらで働く方が自分の人生にとって良い選択だろうとか、利害関係の複雑なプロジェクトの中でどういった施策が最も効果が高いだろうとか、どれが正しい、どっちが優れているといった解のないことに対する助言だ。

私自身そうなのだけど、若い人への助言は限定的にしようと日頃から気をつけている。自分のメディア力とのバランスを取りながら若い人の感性やモチベーションを阻害しないこと、いわゆる老害にならないよう、気を配っている。

それと同様に私より年配の人のことを考えると、私が尊敬する年配の方もあまりあれこれ言ってきたりはしない。たまに私がみえていない気付きを与えてくれたりして、分かっているなら最初から教えてよ!とか思ったりするのだけど、落ち着いて考えてみると、やはりそうではないというのも分かる。

経験があるほどにその状況におけるベストなものの判断は速く的確になる。それは堅実な解として優れているかもしれないけれど、新しい可能性のある解ではないことが多い。そう考えると、よく知らない若者においそれとは助言しないし、その助言の内容についても慎重になる。

つまり尊敬する経験のある人はなかなか助言をくれないのが必然なのだと思う。折をみて、必要最小限の助言しかしない。それに気付いて自分のものにできるかという自分自身の姿勢が問われる。

年をとるにつれて自分より経験のある人は相対的に減っていく。身近にそういった経験のある人にいてもらうというのは、自分より若い人と一緒に働くのと同様、両輪としてバランスを取る必要があるかもしれないなぁと経験年数の話題を脇目に考えていた。

24時間というサイクル

ここ数年ずっと考えていたというか、いまも考えていることだけれど、生産性に24時間という1日のサイクルは適切なのか。

プログラマーの世界だと、とんでもなく生産性の高い人の中には24時間のサイクルで生活していない人がいる (もちろん、そうでない人もいる) 。それは人に依るものなのか、生活スタイルも起因しているのかに私は興味をもっている。誤解のないように、生活スタイルが普通の人とそうではない人は、普通の人がこなすルーチンをやらず、その時間を別のことに費やしていることになるため、生産性が上げることへの一定のモチベーションにはなる。多少はトレードオフの関係で成り立つけれど、そうではない卓越したレベルの場合、生活スタイルにも何かしらの相関関係があるんじゃないかというのが昔からの私の関心事なのだ。

多くの日本人というのは、規則正しく時間に厳しく真面目に生活するように教育されている。そこから逸脱するには心理的な抵抗感、社会的なデメリットが大きい。

私は働き出してからはほとんど朝型の生活スタイルを取ってきて、経験からそれによる成果も実感はできている。朝型の規則正しい生活そのものに悪い面があるか?と聞かれたら、ほとんどない、みんなそうすると良いよとは答える。その生活スタイル自体も否定はしない。むしろ関心事なのは、そうじゃない、一見めちゃくちゃな生活スタイルにも生産性を高めるなにかがあるのかということ。

いまはちょっと時間に余裕ができたのでこの1ヶ月ほど、24時間に縛られない生活スタイルを模索していた。いわば寝る時間と間隔の調整だ。例えば、4時間寝て8時間活動するを1日2セットとか。これは負荷が高くて続かなかった。とまぁ、朝寝たり、昼寝たり、夜寝たりするのを24時間ではないサイクルでいろいろ試してみた。

結論から言うと、難しい、、、というか、自分にはあわない気がしてきた。

感覚的なものでしかないけど、生産性はそう変わらなかったような気がする。決定的に違うことが1つだけあって体調を維持できない。不規則な生活は体調を悪くする。このことは生産性に悪影響を及ぼすことはあっても良いことはないと思う。体調が悪いというのは、風邪を引くとか病気になるとか、そういうことではなく、食べた後で吐き気がするとか、疲れやすいとか、目がみえないとか、そういうことだ。

余談だけど、最近視力が悪くなりつつあるのを自覚できるようになってきた。年齢のせいで毎年徐々に視力が悪くなっていて、1年前ぐらいの視力検査で言うと 0.7 と 1.0 だったと記憶しているけど、日常生活だとあまり意識することはなかった。徐々に悪くなるのを認識するのは難しくてあんまり気にならなかった。たまたまなのか、体調のせいか分からないけれど、最近は目の焦点があわない感じでターミナルの文字がみえないことがたまにある。そのうち目が見えなくなるんだなぁとちょっと不安に思うときがある。

体調が悪くなるのは、これまでの生活スタイルが長年続けてきたものが染みついていて変化への抵抗勢力かもしれない。いまの生活スタイルで困っているわけでもないから体調を維持するには規則正しい生活の方が自分にはあっているように思う。もしかしたら生活スタイルに一番大事なことはその人の体調を良い状態に保つことで、そこに個人差があるだけのお話かもしれない。

生産性には体調が大事という当たり前のお話でした。オチはなかった。ごめんなさい。

スカウトコンサルタントとの対談

LinkedIn に登録していると、断続的に転職エージェントからメールがくる。基本的に転職エージェントからのメールは全て無視していて、ダイレクト・リクルーティングのときだけ、(興味があれば) 会ってお話するようにしている。

たまたま時間があったから、(転職の意志はないと告げた上で) 人材紹介会社のスカウトコンサルタントと会ってお話してきた。あえて「スカウトコンサルタント」と区別して書いたように、転職エージェントは転職を目的としたサイト (LinkedIn とか) 経由でやってくる担当者を指していて、スカウントコンサルタントはちょっと別扱いという意図で私は区別している。というか、その担当者と会って話してみて区別しようとそう思ったので区別してみた。

スカウトコンサルタントに会うことにした動機はとてもシンプルだ。

私の個人メールアドレスに直接スカウトのメールが届き、どうやって私の個人メールアドレスを入手したのかを単純に尋ねてみたかった。実際に会って聞いてみたところ、ネット上でいろいろ調べて見つけましたと言う。鞄の中から紙に印刷した、ブログ、twittergithub、技術系サイトに寄稿したレポートなどが出てきて、本当にいろいろ調べていた。ある意味怖かったw

あるキーワードで検索して出てきた人物の中から、さらにその人のキーワード (ハンドルネームとかかな?) で検索して、情報収集したのだと言う。まさに地でネットストーキングして、その中のどこかにメールアドレスを見つけたので直接メールしましたとのこと。逆にスカウントコンサルタントからは、それらの情報にはどこの会社に勤めているのか分からなかったので教えてくださいと質問を受けた。

そこまでして調べたんだと分かったら、へーって感心してしまって矢継ぎ早に次の質問が頭に思い浮かんだ。

「1人1人そんなことして探していたら、すごく労力がかかって大変じゃないですか?」
答えもすごくシンプルだった。

はい。すごく大変です。そうでもしないとクライアントが求めている人材を見つけられないんです。

これは転職サイトが機能不全に陥っているのを如実に物語っているようにも受け取れた。ダイレクト・リクルーティングが流行り始めるわけだ。

私の勤め先を把握していなかったことから、そのスカウントコンサルタントは私の LinkedIn を見つけられていなかった。曰く、LinkedIn もある種のバイアスがかかっていて、登録者は転職エージェントからのスカウトメールに慣れていて、ほとんど無視されるから使わないのだと言う。まさに冒頭に書いた私のような人がほとんどなんだろう。

もともと転職の意志はない上での情報交換という名目で会ったのと、メールアドレスの漏洩先がどこか?というのが懸念が解消されたのもあり、普通に打ち解けて求人企業の話をしたり、私の知っている業界情報を話したり、ギブ&テイク的にやり取りして結構おもしろかった。

見ず知らずの人をネットストーキングして、自分の人材 DB を構築していって、タイミングを見計らって転職を促すという、スカウトコンサルタントは大変なお仕事だなぁと素朴に思った。なんというか、相当に再現性の低い、人依存の、運任せの業務だ。1時間半ぐらいお話ししたんだけど、一期一会というか、人に会うことから学ぶことは多いと普段の人見知りな姿勢を反省したりもした。

コンテンツ化することのなにか

wikipedia:コアコンピタンス という用語を最近はあまり聞かない。もはや死語かもしれないが、私が就職活動をしている当時 (10年前) はよく聞いた言葉だった。

御社のコアコンピタンスは何ですか?

と言ったように使う、いや、使われていた。それを個人に応用して、誰にも負けないなにかを持っている人でないと競争に勝てないといった言葉が流行っていた。さらに、コアコンピタンスが1つでは役不足で、2つないとこれからの時代は生き残れないという意識高い系の言説がさらに若い人に呪いをかけていた。その要旨自体はいまでも通用する当たり前の話ではあるけれど、私もそのときからずっと2つ目のコアコンピタンスとは何かと言うのを考えてきた。

普通に就職して、普通に何年もお仕事を続けていると、その業務についてはプロになる。例えば、私は SIer で流通基幹系の開発プロジェクトに3年間ほど携わり、基幹システムの開発・運用がどういうものかという経験を積んだ。その後、2年ほど OSS のパザールモデルの開発の在り方を学び、プログラマーに転身して5年ほどプログラミングの技能を磨いてきた。小中規模の開発プロジェクトにおけるシステム開発の経験や技能は、一般人と比べれば、それは紛れもなくコアコンピタンスだ。

但し、それは一般人と比べたからであって同じ業界の人と比べるなら大した違いはない。本当はその分野で秀でれば良かったんだけど、どうもそれほど努力も足りず、才能もなかったのでそうはなれないかもしれない。まだ諦めてはいないが、年齢を考えると自信もない。そこで2つ目のコアコンピタンスだ。同じ業界の人と比べて、自分はこれが卓越していると何をもって言うか。

これがなかなかに難しい。

いろいろ若い頃から考えてきた。2つ目のコアコンピタンス人間力なのか、マネジメント力なのか、英語力なのか。どれも興味はあるし、今後も磨き続けようとは考えているものの、なんか違うなぁと思っていた。そして、最近の動向からこれかも?と思うようなったのはコンテンツというチカラだ。

言うまでもなく、個人がブログを書くようになって、SNS で同僚や友だちと緩くつながるようになり、コミュニティで共通の目的をもった仲間と出会うようになった。そういったソーシャル的なものが流行するようになって、自分がコンテンツとしてどうみえるかというのを考えるようになった。個人が wikipedia:エンパワーメント されるようになって、よりおもしろい人とおもしろくない人が如実に表されるようになったとも言えるし、誤魔化しの効かない時代になってきた。つまらない人はソーシャルでもつまらない。

このコンテンツというのは誰にも真似ができない。誰も自分の人生を肩代わりできないし、ビジョンも共有できない。

自分がコンテンツとして他者からどう映るか、それがおもしろいか。ここでいう「おもしろい」というのは、波乱万丈な生き様で泣いたり笑ったりできるということではなく (もちろんそれはそれでおもしろいが) 、他人に興味を抱かせるなにかをもっているかということを指している。

コンテンツはそれ自体がエンターテイメントの対象であるべきだし、それ自体を強みにしたり、マネタイズしたりするわけではない。コンテンツから生まれる次の行動だったり、影響だったり、文化だったりするなにかを指している。まだうまく言葉にはできないけど、もっと身近にコアコンピタンスがみえそうな、そんな気がしている。

区切り

2004年から働き始めたので2014年はもう10年経ったことになる。

一貫してなにかに従事してきたわけではなく、いろんなプロジェクト、分野、技術に触れてきた。望んだものではなかったんだけど、結果的に wikipedia:ジョブホッピング してきた歴史がある。あれこれ試してきたために高みには至らなかったけど、視野を広げることはできたし、一番良かったと思うのは人をみてこれたことだ。

先日、同僚とプロジェクトや組織、人事や評価制度との関連、経営陣の考えなどを包括的に話していて周りはあんまりそういうのを気にしないのかな?と思うことがあった。

一般的 (?) に3年で組織がみえて、5年で経営がみえるとか聞いたことがある。新人に3年は会社にいなさいというのもあながち間違ってなくて、その組織がみえないと業務もワークフローもまわせないので成果をあげられない。成果をあげるには組織の在り方や方向性を理解する能力を学ぶまでは辞めない方が良いといったことなんだと思う。

たぶん私が新卒入社したところが、ちょっと理不尽な、やや封建的な古い業界を相手にする会社だったからこそ、どうやって自分のやりたいことや思いを実務に活かしていくか、みたいなことを真面目に考えていた。当時はビジネス本から心理学の本までいろいろ読んでいた。

多くの会社の業務というのは、本質的な生産性を上げることにたくさんの業務時間を割いていない。全く無駄な時間とは言わないけど、管理工数、根回し、コミュニケーション、サポート、教育など、いろいろやることはある。多くは情報共有のための基盤かもしれないけど、自分の業務をやるには不要なことを組織である以上、ある程度はやらないといけない。その過程で、おそらくは会社に余裕ができるほど、本質的な業務の割合が減っていく傾向にあると思う。その生産性に寄与しない元凶がどこにあるのか、くだらない政治に巻き込まれないようにするために組織をみないといけない。

「組織は内部から崩壊する」とはよく言ったもので組織がみえてくるほど、足を引っ張っているものが何なのかがみえてくる。私にとっては、それが許容できるものか、自分のやりたいことを邪魔しないか、モチベーションに悪影響を与えないか、そういった観点からみている。極端な言い方をすると、組織として悪い方向へ進んでいても、自分にとって居心地が悪くないなら放っておく。私の場合、その逆にしか興味がなくて、そこがその組織で働き続けるかどうかの分水嶺になっている。

年齢的なこともあって、ちょっと前から次の5年をどうするかを考えていた。いまの、みえるようになったものを使って自分なら何ができるのか。特に具体的なものがあるわけでも全然ないんだけど、心情をそのまま表現すると思い知りたいという気持ちがある。それが良いことかどうかも分からないけど、がんばろうという気持ちがあるのでそれだけでやってみる。

で、そこからまた学ぶと思う。